1.田染の思い出 昭和36年田染中学校卒 河野文昭
私は父の転勤で昭和24年から36年まで(4歳から16歳まで)12年間田染に住んだ。上野では近所に同じような年ごろの子 供が多く、魚釣りでもコマ回しでも仲良く遊んでもらった。道路の向かい側に毎日槌音のする鍛冶屋があり、その前がバス停 だった。バスは石油製品がないために木炭バスだった。自家用車のない時代で子供にはバスが珍しい乗り物だったのでバ スが止まるたびに集まった。馬力がないバスがゆっくり発車すると追いかけてバスの後ろについた木炭炉の送風用ハンドル をぐるぐる回すのが私たち悪ガキの遊びだった。何回も運転手さんから叱られたが、やめなかった。みんな悪ガキだった。
鍛冶屋の前には木炭バスのほかにオート三輪車の魚屋も来て、元気のよいおやじが1斗缶を棒で叩いて「アジじゃ、サ バじゃ、イワシじゃ、クジラもあるで~」と大声で客を呼んでいた。唐人干しやオバイケなども売っていた。その後学校給 食が始まるとクジラはよく出た。
戦後4-5年のこの頃は肉や魚を普通には食べられない食生活だったと思う。一番のごちそうは飼っている鶏をつぶし て相性のいいゴボウと煮込んだカシワ汁だったようだ。我が家も両田ではチャボを飼って卵を産ませたり、ヤギを飼っ て乳を飲んだりした。上野で飼っていたアヒルがある日突然いなくなった。その夜の我が家はごちそうだったが、妹は 大泣きした。皆食糧確保に必死だった。春と秋の『おせったい』のお菓子や西生寺の本堂裏の『ケンポナシ』の味は今 思えば大してうまくはないのだろうが懐かしい。おやつや甘いものに飢えていた。
終戦の年の昭和20年生まれの小学校新入生は59人だけで、2組になれず狭い教室にすし詰めだった。3年生になり 平野と蕗の分校の同級生を迎えて2組になったのがうれしかった。学校の帰りは田んぼ脇のあぜ道などを通って、の んびりと道草しながら歩いた。小学校では成績を気にもせず、運動会の学年リレーや部落リレー選手に選ばれると大 喜びするのんきな時代だった。
中学校では定期試験の前だけは少し勉強したが、部活のバレーボールで先生や上級生にしごかれながら暗くなるま で練習した記憶が一番鮮明だ。土のコートで手や足に擦り傷が絶えなかった。肩が冷えるから川で泳ぐなと言われても 真夏の暑さに負けて隠れて泳いだ。今では膝を痛めるので禁止されている『うさぎ跳び』を何度も何度もやらされ、ス タミナ切れになるからと水飲み制限された。3年生の時に県大会で3位になったのは、その効果だろうか。県大会が終 わると卒業後の進路を決める時期だ。私はごく自然に高校普通科への進路を選んだが、卒業即就職する人や実業高 校、定時制高校に進む人達の事情に思いを致すほどの大人ではなかった。
高校入学と同じ春に父が転勤し、私の12年間の田染生活は終わったが、田染での12年間は格別に楽しい時期だった。 小学校、中学校ともに素晴らしい先生に恵まれた。そして田染生まれではない私と分け隔てなく遊んでくれる友達に 数多く出会えたことは何ものにも代えられない私の宝物だ。年長者が幼い子たちを守り育てていく子供社会が田染に はあったと今になって思う。そして今、私は当たり前のように在京田染会のメンバーになっている。短いが濃い時間を 過ごした田染の思い出をいつまでも大切にしたい。
2.田染の思い出 加藤孝博
私は昭和25年9月17日に田染蕗に生を享けた。
まことに喜ばしい限りであります。
私の人生67年の中に、輝きを放っている12年間の蕗での時間です。
春は草木が若葉をたたえ、川のせせらぎの中に多くの魚が泳ぎまわり
夏は、蛍が何万匹も川の水面を照らし、それこそ「蛍来い、こっちの
水はあまいど、あっちの水はにがいぞ」でありました。
勿論、幼稚園などというところには行かず、毎日野山を駆け巡る日々を
送ったのであります。
冬は祖母に連れられ、なんこみ(仕掛け)を川にして、ギュウギュウ、
ハエ、ウナギ、ドンクロなどを獲って食したものであります。
おいしかった。5杯も6杯も飯を喰いました。
秋は柿がたくさんあって、渋柿は茹でて、渋抜きをし、食べました。
甘かった。
山には、山梨が高い木になっていましたが、なかなか獲れませんでした。
山に、うっつめ(仕掛け)をして、鳥を捕まえるようにしましたが、余り
成功した記憶はありません。
夏は、朝から暗くなるまで、川で村の多くの友人と遊んでいたものです。
1,2年は蕗分校に行き、3年から山を越えて本校に通いました。
夕方、暗くなると、池辺の山の中の墓のそばの道を通る時は、走って行った
ものです。
怖かった。
3.田染の思い出 渡邊康倫
田染の思い出は、四方を山で囲まれた緑豊かで、自然に恵まれた風景を思い出します。
私は、特に夏の田染が大好きでした。
元宮の夏の御神楽で、鬼に追いかけられ怖い思い出や、つるやのアイスキャンデーや、
ポンポン菓子が美味かったことを思い出します。
少年時代、川の水は綺麗で、川魚も沢山生息していました。
「ウルチン」「ギュウギュウ」「アカチョロ」「ハエ」「ドンクロ」「ニイナシ」「アブラメ」
「カマスカ」「ウナギ」「フナ」「コイ」「ナマズ」等。
池辺の『清水』は冷たくてよく飲んだものです。
私は、父が魚釣りが好きだったこともあり、魚取りや魚釣りを教えてもらいました。
小魚を取るのに、「はえ獲り瓶」を流れがゆるやかな場所に仕掛け良く獲ったものです。
「はえ獲り瓶」の中には、ニイナシ、アブラメ、ハエなどが入っていました。
ウナギも良く獲れました。
私は、ウナギを獲るのに「なんこみ」を仕掛けて獲りました。
「なんこみ」は、夕方5時頃に仕掛け、翌朝5時頃、仕掛けをあげます。
仕掛けをあげるまでの、うなぎがかかっているかどうかのワクワク感は、今でも思い出します。
「なんこみ」を仕掛けるのに、ドジョウのブツ切りを使います。
ドジョウはブツ切りにする時、『キューキュー』と懇願するような、悲痛な鳴き声を発します。
今でも、ドジョウを意識すると、その時の鳴き声が思い出され、ドジョウを食べることが出来ません。
おそらく、ドジョウの祟りでしょうね。