田染の歴史

田渋とも書いた。
国東半島南西部、桂川の上流域を占める。
田染盆地を中心として周辺部の山地を含むが、さらにその上流域の現在の大田村をも包含していたのではないか
と推定される。
当地域を含めた国東半島南部は、大化前代では豊前宇佐地方に勢力を張った菟狭津彦・菟狭津媛らの宇佐国造の支配圏
と思われ、八幡の分霊社が多い。
田染郷は、奈良期から平安期に見える郷名。
豊後国国崎郡七郷の1つで。「和名抄」に国崎郡として、「武蔵・来縄・国前・田染・阿岐・津守・伊美」の7郷を記すが
その内の津守郷は、大分群の郷の誤入で、除外される。残りが律令制下の六郷で田染郷はその内の1郷である。
「豊後国風土記」に、「国崎郡,郷六所」とあり、国崎郡の六郷は奈良期以来のことであることから、田染郷も
同時代から存在したものと考えられる。
六郷の内、田染郷を含む南部四郷は、平安中期以後宇佐八幡宮領荘園となるが、武蔵・安岐・来縄の三郷は
封戸が指定されて荘園化するのに対し、田染郷のみは封戸に関係なく荘園化する。
こうした点から、宇佐宮との関係において、他の三郷とは何らかの異なる関係のあったことが考えられる。

田染荘は、平安末期から戦国期に見える荘園名。
古文書には、時に「田渋庄」とも見える。
国東郡田染郷のうち。田原別符(現在の大田村)が田染郷のうちとすれば、田染郷の西半分を占めたことになる。
当荘は、宇佐宮の「本御庄十八箇所」の1荘で、他の諸荘の多くが11世紀の初・中葉の成立である事実からすれば、これも
おそらくその頃の成立と考えられる。
田原別符は天喜5年3月、紀季兼が大宮司公則の外題判を得て開発したもの。(宇佐大鏡)
大宮司公則の外題判によって開発したということは、当時この地が宇佐宮領となっていたことを示す。
田原別符が田染郷から成立したものとすれば、当時同郷は荘園化していたことになる。
このように考えると、田染荘の成立が田原別符より若干早かったと考えざるをえない。
摂関家が本家で宇佐宮が領家、現地荘官には宇佐一族の田染神主家が在荘した。
田染氏の屋敷は重安名内の尾崎屋敷で、現豊後高田市田染地区大字峯崎字小崎の延寿寺一帯に比定される。